昭和四十五年十月二十四日 朝の御理解

X第六十五節  日柄方位は観るに及ばぬ。普請作事は使ひ勝手のよいのが、吉い家相じゃ。吉い日柄と言うは空に雲のないほんぞら温い、自分に都合のよい日が吉い日柄ぢゃ。如何に暦を見て天赦日ぢゃと言うても雨風が強うては、今日は不詳のお天気ぢゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に吉い凶いはないと思へ。

 教祖の神さまは、日柄方位を観られたり、又普請作事には、あらゆる角度から間違いが無いやうに、言うならば金光さまのお気障りがないやうにと、いったやうな実にややこしい面倒な手間をとられて、それをなさり、いわゆるここにこうゆう風に教えておられる。
それと反対の事を御自身がなさっておられます。
 そうゆう考え方をなさっておられた教祖さまが、どうしてこのやうなおおらかな、吉いとか凶いはない。いわゆる吉い日柄と言うは空に雲の無いほんぞら温い自分に都合のよい日が吉い日柄じゃと、大変な考え方ですねぇ。それがどうして、このやうなおおらかな考え方になられる事が出来るやうになられたのであろうか。
 まだまだ世間では、そうゆう事で、いわゆる広い世間を狭い世間にしてしまうやうな考え方で言うなら、難儀を致しておりますのに教祖さまは、そうゆう何のさし障りもない心の状態でおられ、又それを人に自身を持って教えておられる。
 少し困った事が起きてきますと、これは家相が悪いからじゃなかろうかと、言うてもう本当におかしなやうに、そこに神経を使うて建てたばかりの家を建てかえたり、又は少し難儀な事になってくると、自分の名前が悪いからではないだろうかと。親にもろうた名前まで替えたり、それこそ、今でも皆さん金光さまの御信心を頂いていない人達は、そうゆうやうな事にも心を悩まされておるやうな訳でございますけれども、私共はもうここのところを教祖さまのおかげで本当にそれを迷信として笑って一笑する事が出来る程しに、段々おかげ頂いていきよるとゆう事は有り難いですが、私はどうして教祖の神さまは、このやうな考え方がスッパリ出来られるやうになられたであろうかとゆう事を今日は、思うてみました。
 日柄方位等、いわゆる暦なんか見るに及ばん。家相なんか必要じゃない。自分の都合のよい日が吉い日柄じゃと。もう本当にこの上もない、おおらかな気持ち、心に何のさし障りもない。日のお照らしなさる日に吉い凶いはないと思へと、教えておられます。
 又の御教におかげのあるも無きも我心とあります。例えば、よい家相も又は、よい日柄もいわゆる自分の心次第であると。
 悪い日柄じゃと言うても、自分に都合のよい事が起こってきたらもうそれは、悪い日じゃなくて吉い日じゃと。自分に困った事が起きてきたら、それはもう、その日は何て今日は悪日だったんだろうかとゆう事になる。
 確かにねぇ。おかげは吉い凶いは我心なんだ。そこから、思うてみるとです。教祖の神さまが、いかに自分の心の中にです。ひっかかるものがない程しにまで、御自分を高められたかとゆう事を感じます。
 もう教祖の御覧になるところには、言うならば、神さまの思いが充ち溢れたところばかりであった。くる日もくる日も、いわゆる神さまのお恵みに充ち溢れた、くる日である。おられる所がもう、神さまの御守護の中にある、自分であるとゆう自覚。
 そこには、もうそれこそ、雲一点も無いやうなおおらかな心でいつもおられるとゆうやうな・・・・ そこで教えられるのは、いつも我心、自分の心次第だと。そこでそんなら、自分の心をいよいよ見極めさせてもらい、追求させてもろうて、自分の心からさし障りのある心を改めていく事になって参ります時に、吉い日も凶い日もない、いつもが吉い日とゆうやうな心の状態が生まれてくる訳である。教祖さまは、そうゆうやうな事になられたのじゃなかろうかと、こう思う。
※ 昨夜、月次祭が終わりましてから、私の控に下らせて頂いとりましたら、菊栄会の方達がやって参りまして、いろいろお話させて頂いておりましたが、途中で杉山三男さんが私の控に本棚みたいなのを置いておりますが、それにいっぱいダニがもう見えるか見えん位のコナのやうなそれがいっぱい湧いているのを見つけまして、さあそれから、もう皆がかかってダニ退治をさせて頂きました。
 私は、椅子にかけて、皆さんがダニ退治なさる様子を見ておりましたら、何かしら、もう有り難くなるのです。
 皆さんもご承知のやうに、私の控には、金光さまのお写真がかけてありますが、「秋永先生、ちょいと拝ませて頂いてごらん。今日は、金光さまがニコニコしてござるよ」と言うて。
 私はいつも金光さまのお写真を毎朝拝ませて頂く訳ですけれどももう大変厳しく感じる事があります。あのお写真を見て。
 又は、もういやーな、もう不快でたまらんとゆうやうな顔をなさるやうにこちらが感じる時があります。
 ところが昨日はね。もう前から見ましても、斜めから見ましてもとにかく一生懸命虫退治をしておられる人達の上をね。ニコニコ顔で見ておられるやうな風にしか見えないのです。
 厳しい顔、嫌な顔をなさる。ニコニコしてござる。お写真がそんなにニコニコしたり、腹かいたりとゆうやうな風に見えるはずはないんだけれど、問題は、こちらの心自体なのだ。自分の心自体なんだ。自分の心が金光さまのお写真を厳しゆう見たり、いやーな感じで見たり、もうそれこそ、私が拝ませて頂く私を軽蔑したやうにして、ご覧になるやうな感じがする時がある。とゆう事は、私の心の中にそれがあるのだとゆう事。
 私は今日の六十五節を頂かせてもろうて、どうしてこのやうな例えば、そうゆう金神遊行説といったやうなものが根強く、その当時の民間の中にです。入りこんでおる、又、御自身とてもそれを徹頭徹尾その事をなさっておられたり、 っておられたりしておられます。
 その教祖さまがです。わずかばかりの御信心の間にこうしてこのやうな心の状態になられただろうか。又、そうゆう信心を信じきっておる人達に、どうしてこのやうなおおらかな御教をお教えになられる程しの事になられたであろうか。
 それは、天地の親神さまから、こうだと教えられたのかもしれんけれども、そうじゃない。やっぱり教祖さま御自身の心の中に吉いもない凶いもない。いつもが天赦日として、いつもが有り難い日として、いつもが神さまのお恵みが満ち溢れておる日々としての頂き方をなされておられたとゆう事自体がです。いかに教祖さまの心の状態がこのやうでおありになったかとゆう事を今日私は、思わせて頂いた。
 三男さんを中心にして、皆が室中をその虫がおらんかと言うて、眼鏡をかけてから見て回ってです。結局おるのは、本を置いておるあそこだけだったですけれども、もう無数限りないたくさんな虫を一生懸命取っておる姿をです。金光さまがもうニコニコとして、ご覧になっておる。
 昨日の朝の御理解からひき続いてです。もうこれは、いよいよその事によって、私の信心が言うなら本当の事になってゆかなければならないぞと、一生懸命に思うておる。私の心から検出されていきよるところのそうゆう例えば、形の上においては、そうゆうダニ退治ですけれども、自分の心の中のダニ退治が昨日の朝から昨夜にかけて、一生懸命なされておる姿が、もうそのまま、私は自然と私とのつながりとゆうやうなものを感じさせて頂かん訳には参りませんでした。そしたら、私は金光さまのお写真からです。私はもう、金光さまがニコニコとして、その姿をご覧になっておられるやうに感じられた。
 丁度、吉い日凶い日、吉い家相凶い家相と、言うて、戦々きょうきょうとした日々を過ごすのも結局は我心。
※ 自分の心の中にね。汚ーいものがありますと、皆も汚く見えてくるのです。自分が内緒事をしておると人まで内緒事をしておるやうに見えてくる。自分が根性が悪いと、皆自分の周囲は根性の悪い人にばっかり見えてくる。
 ところが、自分自身がです。有り難い心の状態の時には、自分の周囲の全ての人が有り難い人、よい人に見えてくる。
 自分に都合のよい事が起こってくると、吉い日であり困った事が起きてくると、今日は何とゆう悪日であろうかとゆう事になる。結局自分を中心にした考え方、そうゆう中にです。今日は何とゆう悪い日であろうかとゆうやうな日を自分自身の心の中にです。そうゆう凶い日にしてしまう程しの悪い心がある事に気付かせて頂いてです。それを検出していく事になれば、もうそこには、言わば、天赦日だけしかない、神さまにお喜び頂けれる事柄だけしかない。
 自分の心から、いわゆる心についておる虫退治をさせて頂いておればです。金光さまが、もうことさらに今日は、とにかくニコニコとして拝ませて頂けれるやうなおかげが頂けれるのである。
※ 日柄方位は観るに及ばん。普請作事は、使い勝手のよいのが吉い家相じゃ。吉い日柄と言うは、空に雲のないほんぞら温い、自分に都合のよい日が吉い日柄じゃ。
 自分の心に雲気一点ない、ほんぞら温い、自分の心に何ともなしに温い、いわゆる包容力とでも申しましょうか。暖かい心の状態の時。
 それには、自分の周囲の全てがそうゆう暖かいいわゆる神さまのお守りの中にある、自分とゆう心の状態で日々を過ごす事が出来る いかに自分の心を大事にすると同時に、自分の心の中からいよいよその日その日の改まりとゆう事に焦点を置いて、教祖の神さまが一変してです。御自身もこうゆう事に、例えば悩されなさった時代がおありになりますが、いかに心を信心に向けられてです。我心が神に向こうて行かれる信心の修業、精進がなされなさったかとゆう事がこの御教の中から感じられます。
 とにかく、おおらかなこの上もない、おおらかな心で世の中が眺められる。毎日が過ごされる。そうゆう私は、おかげを教祖さま御自身がお頂きになられて、確信に充ちた言葉をもって、このやうに教えて下さってあります。
 だから、吉い日凶いはないとゆう。日柄の上にも様々なそうゆう理屈の上で教えられたから、それが分かるとゆうのじゃなくて、もう自分の心の中から、吉い日凶い日はない、吉い家相凶い家相はないと思へれる程しのね、我心をいよいよ作っていかなければならないと思います。
 今日は、この御理解のことわけてないとゆう説明ではなくてね。
お互いの心次第、自分の心で吉い凶いはないとゆう事になってくるとゆう事を、今日は強調して頂いたつもりですけれどもね。皆さんそのつもりで頂いて下さい。どうぞ。